言葉の意味も多様になっていくのだ

夏休み、というからにはそれまで休んでいない期間というものがある。土日休み、というからには月火水木金は休みではない、ということになる。

何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、「休み」という言葉がもう何年もの間、なんだか全くしっくりこなくなってしまっている。

夜寝て朝起きる、という時間もれっきとした休み時間としてあり、それに加えて土日やら祝日やら夏季休暇やら、色々あるのが現代社会というものなのは重々承知で、ではここでいう「休み」というものは何に対して添えられているかといえば「働く」だと思われる。

けれどもう少しだけ考えてみるとこれは、雇用主が被雇用者に対して設定しているものが殆どだということに気付く。

つまりみんな、雇用条件のうちの一つとして、休みをルールとして設定されていて、それを守っている状態というのが、殆どの場合の「休みの日は何してるんですか?」とか「お休みちゃんと取れてます?」に案に含まれる「休み」の意味だろう。

何を当たり前のことをと思われているのは重々承知で続けるけが、するとルールを誰にも決められていない側の人、個人事業主や会社役員、学生(擬似的に土日休みということに学校的には言えるけれど実際は土日もサークルとか部活とかバイトとかしてたりするという意味で従うルールが主従関係下にない)にとって、この話は前提が違うので本当は通じない。

本当は通じないはずなのだけど、合わせているのが大人というか、一般的なコミュ力を備え育った教養人なのだと思う(モヤモヤして上手く毎回答えられない僕はひどくその意味では未熟、あるいは子供なのだとも思う)。

ここまで書いてきた一般的な「休み」という言葉が、純粋にその意味に当てはまる日や時間は僕にはないのだと思う。

まぁそりゃ、誰かに決められる気も、自分で決める気もないのだからそりゃそうか、と。

身体に関して言えば睡眠時間は休んでいるし、心や頭に感じで言えば、親しい人と過ごしていたり、独りでギターを弾いていたりするときは休んでいるのだと思う。

生き方が多様になり、働き方が多様になり、触れる情報も多様になれば、そりゃあ今まで使ってきた言葉の意図するところも一人ひとり多様になっていくのだということを、僕らはもう少し真剣に受け止め、気をつけなければいけない時代に、生きているのかもしれない。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。面倒臭いなぁと思う時もあるけれど、少しずつ慣れていくことで、当たり前になっていくことで時代は進んでいくわけですから、面倒臭いけれど大切なことをするとき僕らは、今まさに進む時代に触れているとも言える気がしています。