緩い思考その一

何かを書く人を、こんなにも垣間見る人生だとは思いもよりませんでした。

かといってどんな人生を望んでいたかと言われても、なんとなく二十代後半で結婚して、それなりに仕事も出世して、なんとなく高めのスーツが似合い、時々海外出張に行って流暢な英語を話す。そんなことをぼんやりと、目指していたわけでも本気で望んでいたわけでもなく、ただ適当に、二十歳くらいの僕は思っていたかな、位の感じです。

結果何一つその軽く持っていたイメージに沿うこと無く、むしろ何処で仕入れて磨いてきたんだか未だに定かではない確固たる自分と共にここまで歩んできた気がします。

そもそも、よくよく考えれば僕は自分自身の人生の未来というものを、あんまり考えるのが好きではなかったのかもしれません。

それよりも、「こんな物事があったらどうだろう?」とか「面白そうじゃない?」とか、「これってやっぱりおかしいと思うなぁ」とか。自分が触れた世界、社会の側面を変えていくことで、未来がどうなるのかを想像してばかりの若者だったんじゃないかと、今更ながら思います(といってもまだ一応若者の部類ではあるはずですが)。

学生の頃からの周りの友人たちを見てもやはりそう思えてしまいます。彼彼女等は僕よりも遥かに自分自身の人生に対して重きを置いているというか、この世界の荒波に揉まれながらも、それはそれとして、大きな会社に就職し、家庭を持ち、子供を育て、一生懸命に幸せに生きている。

一つの目に見えないけれど大勢が持っている共通認識の幸せという旗印を、世界の荒波を乗り越えながら目指していって、それを守るように戦っているような。

やっぱり何か、僕には見えてない、分からない何か引力というか、求心力みたいなものがそこにはあるのだろうなとも思います。

逆に、僕は僕できっと傍から見たら同じように、謎の求心力によって何処かへ導かれ続けているようにも見えるのかもとも思います。

それを人は夢と呼んだり、信念や野望と呼んでみたり、しているのかもしれません。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。続く。