光の数だけ生活があるのだと、飛行機の窓から街を眺めた私に母が言った。
人は地球を汚しているのだという正論と、目の前に広がる無限の光の美しさとに、どう折り合いをつければいいのかわからず、幼い私はしばし黙った。
歳を重ねて、美しさとは、理由などとは本来無縁なのだと気が付いた。美しいものには、美しい理由がなければならない、なんてことは無いのだとある日ようやく腑に落ちた。
目に映る美しさ、耳で聴こえる美しさ、肌に触れた美しさ、舌で感じた美しさ、そして、心で、頭で捉えた美しさ。
そのいずれにも偏ることなく、全ての感覚、思考の真ん中に立ち、物事を見つめることが、今、私にはできるだろうか。
例えば何かの美しさを認めた途端に、他の何かが虐げられてしまうなら、それは果たして真の美なのだろうか。
本当の美しさを、きっと飛行機の窓を眺めた頃からずっと、今も分からず悩み続けて、ここまで来たのだろう私。その道すがらでいくつか、片手で数えられるくらいの美しさを垣間見たのだろう私。
見つめ、向き合い、見極める勇気を持ち、紛うことなき自らの心のままで、生きていきたい私を何度でも思い出し、この先もゆきたいと思った。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。自分らしさとは、何を美しいと思い、何を粋だと思い、何を疑い、何を信じるかということだろうに。それがなかなか、難しいんですよね。