物語について言えば、文章こそがミニマムな情報量でありながら、最も豊かな想像、空想の時間を与えてくれるのだということに、二十歳の頃のその人は気付いたのだと言った。
それを聞いて、
そうかぁと僕は暫し空を見つめて浸ってしまった。
何かを言葉にすることですら、何処か物事を限定してしまう気がして、億劫にすらなることもある僕からしたら、言葉こそが自由なのだという答えはとても鮮烈なものに聴こえて、ファーっと開け放っていた窓のカーテンがなびいて新鮮な風が吹き込んできたような心地になっていた。
そうか確かに、
言葉とは例えるならば星のようなものなのだと、今の僕なら思える気がする。
星を眺めて、人が何かを空想する。
人と人とがぼんやりと、
何かを語らい眺めて過ごす。
そこには確かに、読み手にとっての、観測者にとっての自由がある。
書き手は物事を、物語を言葉に閉じ込めて少しの自由を奪ってしまう気がしていたけれど、それはやがて読み手にとっての自由へと繋がっていたのかもしれない。
作り手が不自由の中から美しさを見出し届けることで、自由になる人がいるのだということを、丁寧な言葉で教わった日の話。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。自由とは、情報の少なさが故の個性の踊り場。