優しい言葉のその先に、求めているのはどうやらおそらく優しい自分。
冷たい言葉のその中に、隠れているのはきっと多分ね悲しい自分。
言葉は伝えるための道具のふりしていつだって、自分自身の心を写す水面みたいだ。
瑞瑞しい言葉の主はきっと瑞瑞しい心の人。透き通るような言葉の主はおそらくきっと、透明な心の持ち主。それかきっと、そう在りたいと心の何処かで願う人。
不完全な道具としての言葉を、それでも使って語らい投げ合い伝え合うしかないのなら、恥ずかしがってる場合じゃないのかもしれないね。臆してる場合じゃないのかもしれないね。
時として歌うように、
時として叫ぶように、
たまにはちょっと詩人みたいに、ロックスターみたいに、あの主人公みたいに、歌うなら叫ぶなら綴るなら語るなら伝えるなら、きっとその時言葉に宿る勇敢な自分。
どんな自分を言葉に宿して生きているのか、生きてきたのか、生きていくのか。それを考えることこそが、言葉というものが僕らに与えてくれる美しいものの一つなんじゃないかなって、思うんです。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。言葉の奥に潜んだ自分自身と目が合って、「やるじゃん」とか言ってやれる言葉を放てたら、それってめっちゃ格好いいなって思うんです。