中学生かな、高校生かな、いずれにせよ学生の頃、「将来の夢」というものを考えさせられる時間はおのずとあるわけで、それは授業だったり友達との会話だったりに存在していて、僕もみんなと一緒になって考えていました。
進学校だったこともあり、そこでの「将来の夢」というやつは自ずと受験する大学だったり学部だったり学科だったりを決めるための手段みたいな側面もあったのを覚えています。
高校三年生の受験シーズンにもなると、あんなにおバカなことを一緒にやっていた友達たちが、各々に得意な教科を得意げに語ったり教えあったりし出して、受験という世界における個々人のポジショニングトークが突如としてあちこちで繰り広げられ始めたりもして、まぁそれはそれで新鮮で面白かった。
その時は僕も進路を決めて、受ける大学を決めて、今思うと勉強していたというよりはゲームにハマるみたいにハマっていた物理学に時間と計算用紙を山ほど費やしていました。
そんな「将来の夢」にまつわる思い出ですが、もう少し遡ると確かにあった思い出をここ最近よく思い出すんです。
それは「詩人になるにはどうしたらなれるのだろう?」と思った日のこと。
検索しても、職業がたくさん載ってる本を探しても、詩人になる方法は書かれていませんでした。
なので、谷川俊太郎さんの生い立ちから現在までを自分なりに調べてみたんですが、そこにも方法論と言えるものはなく、ノートに詩を書き溜めて、誰か世に出してくれる人がたまたま家に遊びにきてそれを見つける、という物語みたいな本当の話が書かれているのをどこかで見つけて、なんだかちょっとしょんぼりしたのを覚えています。
それからその時のことと詩人への憧れはなんとなく心の隅に追いやられて、受験をして、大学に通って、卒業して、あれよあれよと今に至るわけですが、どうやら僕は今、時たま誰かに詩人と呼ばれているようなのです。
数ヶ月前、誰かが何処か何かの会で僕を他の方々に紹介してくださった際、「この人は詩人なんです」と僕の隣で真面目な顔で言ったのを聞いたんです。
それから暫く、「僕って詩人なんだっけか?」と考えていたんですが、そしたら別の人がまた、「詩人ですよね?」と僕に聞くんです。
その時、あぁそっか、これはどうやらそうらしいぞと腑に落ちて、「そうです、詩人です」と答えた僕。
誰かが僕の名前を呼んで、
僕もその名前は僕なのだと自信を持って思い答える。
名前とは、呼んでくれる誰かと、
それは私なのだと信じて疑わぬ自分がいた時ようやく意味をなす。
名前同様きっと肩書きや職業みたいなものも実際はそうなんじゃないかなって、思うんです。
少なくとも、僕にとって詩人という言葉はそうでした。
そんなわけで僕は、自由丁オーナーであり、詩人であり、エッセイストでもあり、アーティストであり、起業家であり、社長であり、経営者であり、クリエイターでありプログラマーであり、自由人で旅人でのんびり屋さんで長男で将平で小山でもあるわけです。わはは。あはは。
自分が名乗ることも大切だけど、やっぱり誰かがちゃんと呼んでくれて初めて、肩書きって名前って存在する気がします。
本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。
詩人になる方法、
その一。無我夢中で詩を書き続けること。
その二。ちゃんと人に読んでもらうこと。発表していくこと。(「ポエマー」や「厨二病」と心の幼い人に冷笑されても気に留めないこと。その人には二度と詩の感想を聞かないこと。)
その三。誰かに「詩人」と真面目に呼ばれること。
その四。自らの作品で人を感動させられるのだと確信すること。
その五。自らが自然体で「詩人です」と言えるようになること。
昔の僕よ、詩人へ向かう何処かの誰かよ、以上なり!