自分の名前で自分の意思で何かを社会に表明するということは、それ自体がある種の自問自答の方法にも思える。
自問自答というか、自己研鑽というか。
社会という他人の目を意識することで、「おまえは何をやっているんだ」と自分自身へ問いかける。
「これにはどんな意味があるのだろう?」
「果たしてこれを通じて僕は何がしたかったんだろうか?」
そういう問いかけを四六時中、社会から投げかけられているような、それに耐えるべく、乗り越えるべく、自らの中の何かを言葉にし、その言葉たちを武器に社会と自分自身の冷たい視線と戦い、そして自らの意思で景色を望むような。
そういう時に、応援の声というのは物凄い支えになるし、意識を保ち、冷静を保ち言葉を育むための暖かな余裕をくれる。
応援に支えられ、育み鍛えた言葉に思考に視点を持って、社会という名の広野に新しい地平線を見つけんとする。大袈裟に言えば、いや、大袈裟でもなんでもないか。自分の言葉で、自分の手で、旗印を掲げ風に吹かれる姿とは本来そういう姿な気がして、故にその時その旗手はただひたすらに地平線の果てを眺め望んでいるはずなんじゃないだろうか。
そういう、たったひとりで歩いてきて、きっとたったひとりでも歩いていくのだろうなと思わせてくれる人の姿をこそ、信じ称える人でありたいと今日も思う。
本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。こっちを見てよ!と自らを指し叫ぶ人より、ねぇ!あっちを見てよ!と地平線の先を指差す人に、僕は希望の光を見る。