時間の言葉

夏という言葉が好きだ。
春も秋も冬も、好きだ。

単に季節のことを意味しているのではなく、色んな思い出が、楽しい記憶が、浮かんでくる言葉。時間を表す言葉だからだろうか。

風鈴という言葉もそうだ。風鈴と言われたら、風に吹かれて鳴る鈴の音も含めての風鈴を想像する。鈴が鳴るということは、そこに流れる時間と共にそよぐ風があるからこそで、故に風鈴という言葉は、過ぎていく時間も含んだ言葉なのだと思えて、好きなのかもしれない。

手紙も、そうかもしれない。便箋という言葉であれば、それはまだ何も書かれていない、美しい紙たちを思い浮かべる。けれど手紙という言葉は、そこに誰かの言葉が綴られていたり、これから綴られるように思える。そこには確かに、誰かの費やす、めしくは費やした時間が含まれている。

エッセイという言葉にしても、そうかもしれない。僕はこのエッセイを、電車に揺られながら、気持ちのいい空の中を進みながら、書いている。

文章を読む時に、それを書いた人が何処でどんな風に書いたのかを想像するのは稀かもしれないけれど、もしも読み手に想像する時間か、きっかけがあったのなら、その時その文章は、言葉は、時間を含んだ言葉になるのかもしれない。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。すべては、限られた時間の中での戯れに過ぎないのなら、なるべく心地良く、味わい深い時間をと思う。なるべく優しく、余韻に浸れる言葉をと、思う。