美しさの宿り木

美しくあろうとする人って、もう既にそれだけで美しいとは言えないだろうか。

美しいの定義にも、一体何についての美しさなのかにもそりゃもちろん依るけれど、美しく在ろうとするその姿勢は眼差しは、すでに十分魅力的だったりするんじゃないか。いや、するじゃないか、と。

いつだったか、「本当の意味での優しさとか丁寧さとか、多分一生私には分からないし、できる自信もない。けれど優しくあろうとすることはできるし、丁寧に生きようと心掛けることはできる。」と友人が言っていて、「あぁなんて格好良いやつなんだろう」と深く深く頷いた日を思い出す。

たとえば人生にゴールなんてものがあったとして、解くべき問いが各々に与えられていたとして、日々が何かの競争の最中だったとして、そのいずれにしても、見るものを魅了する美しさは、結果ではなく過程の中に、生き様の中に宿る気がしてならない。

本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。賢く、強く、美しい人になる。そうノートに綴った人に出会って、あぁ美しいなと、思ったんです。