今日、去っていく人がいるように、今日、新しく出会う人もいる。
「出会い」と「別れ」、なんて言葉にすれば、
両方ともひらがなでたったの三文字。
けれどもそんな三文字で言い表せない人間模様が、
そこにはしっかりはっきりあることを、多くの人が知っている。
たとえば、去っていく大切な誰かがいたら、
「寂しい」という言葉だけでは到底表現しきれない感覚に襲われることを、
多くの人が身をもって知っている。
涙を流す人もいるだろうし、
茫然と立ち尽くす人もいるだろう。
「あー寂しいー」とか「うー寂しいー」とか、
延々と言っている人もいるだろう。僕らだろう。
三月は別れの季節というけれど、
四月が出会いの季節だということを考えると、
三月はその出会いへ向けての準備をしているとも思える。
だから別れは、新しい出会いの始まり、とか、
何かの終わりは何かの始まり、とか言うわけだけど、
まぁそりゃそうか、そりゃそうだ、と思う。
ただ、そんな次のことより何よりも、まずは今、
終わりの今を、去りゆく今を、ちゃんと味わい、
見送ることも、あっという間で切なく、それでいて豊かな、
人生の醍醐味なんじゃなかろうか。
去りゆく今、たとえば別れるとか、
終わりとか、たとえほんとにその時が訪れたとしても、
大好きな人に、大切な人へ贈る言葉は、
「またね」が良いなと思っています。
「またね」には期待と、好意と、寂しさと、悲しさと、そして願いが、
一緒になって含まれているような気がして、
「出会い」と「別れ」と同じひらがな三文字ですが、
こちらはなんとも複雑な、その時の気持ちを見事に表している三文字だなぁと、
今日も今日とてそう感じずにはいられない僕らです。
本日も読んでくださり、本日も、ここに居てくださり、ありがとうございます。
自由丁がこうしてあるのは、こうしてここに居てくれた、読んでくれたあなたのおかげ。
寂しいと思えるのは、それだけ楽しかった、嬉しかったをもらった証。
そんな去りゆくあなたへ、本当に、ありがとう。
次の旅路も、どうか良きものになりますように。それじゃ、
またね!
補足:この文章は、2020年3月に小山が書いた一篇「またね」(現在は非公開になっており閲覧不可。当時の「自由丁今朝の落書き」はなんと、書いた二日後には誰も読めない仕様になっていたのです)を元に、2024年2月22日で勤務を(一旦、一旦ね)終え、新しい場所へと旅立つ大切なスタッフへ向けて書かれたものです。