わからないを増やしたくて

私にも詩の好き嫌いがあるように、
あなたにも、そうだろうと思う。

詩に限らず、
好む文体、好む口語があり、
使って欲しくない言葉や、聞きたくない言葉というものが、
恐らく誰しもにあるだろう。

それらを配慮し、
誰にも咎められることなく、
必要な情報を豊かな言葉たちと共に届ける人を、
人はライターと呼んだり、
エッセイストと呼んだり、
或いは編集者となったりするんじゃなかろうか。

逆に、
それらを配慮しようにも難しく、
或いは意識的に放棄し、
自らの感性、思考と共に、
自らも時折意味が掴めないようなものを書く人々が、
詩人と呼ばれたり、小説家と呼ばれたり、
アーティストとなったりするんじゃなかろうかと思う。

言葉の集まりである文章を、
情報の方舟とするならば、
求められるのはライターやエッセイストのような人々。

言葉の集まりである文章を、
情報ではなく情景の方舟とするならば、
それは詩人や小説家が作りうるものだとも思える。

同じ文章だというにも関わらず、
前者は書き手が意味をまとめ、届ける。
後者は読み手が意味をとらえ、考える。

前者は書き手と読み手の理解が合致することが価値であり、
後者は書き手と読み手の理解がいくらでも相違していいことに面白さがある(というか書き手の理解がそもそもあるのかも怪しい)。

ライターにとって、読み手からの「わからない」はかなり思く鋭い言葉かもしれず、詩人にとっての読み手からのそれは、なんというか「そうですよね」とむしろ共感すらできうる人間らしい、身近な言葉だったりする。

そうは言っても結局いずれの場合も「わからない」文章は受け入れられ難く、社会には馴染まず、何処ぞのゴミ箱へと追いやられる。

そこんとこが、特に詩について、或いは詩的な文章について、どうにかならないもんですかねと、私なんかは思っているのかもしれない。

例えば、「わからない」けれど誰を傷付けるわけでもなく、読み心地はむしろよい、そういうものたちならば、もう少し社会に留め置かれてもよいんじゃないか。

はっきりと理解できるものだけが社会の大半を漂うことへの違和感と、その結果としての白黒はっきりしない物事へのこの社会の、人々の耐性の無さこそが、日々の居心地の悪さに繋がっている気もするからこその、そんなことを思う。

わからないけど、今日はなんとなく、この曲が聴きたい。
わからないけど、今日はなんとなく、ラーメンの気分。

わからないなぁって、少し笑顔ですっきりと、
詩を読んだ後に呟いてみる。

どういうことだろうって、明るい顔で、
じーっと絵画を前に立ち尽くす。

そういう「わからない」が、
もっと増やせたらいいなと思って、
書いている、つくっている私です。
生きている気がする私です。

本日も読んでくださりありがとうございます。むしろそういうことばっかしちゃうから、ライターや編集者という人々への尊敬も絶えない私です。