趣味を一つ挙げるとしたら何かと問われれば、音楽だろうか。漫画もアニメも映画も、コーヒーも旅行も好きですね、とか付け加えながら釈然としないままに、言う気もする。
ただ、趣味という言葉が、仕事と切り分けられているものだとするならば、僕には趣味は一つもないということになってしまう。趣味は時折仕事でもあり、仕事につながるものもあり、というか生活そのものがそうなのだから、もはや休みの日やら余暇やら、そういうものを定義することが少なくとも僕の日々ではできない。
そんなことを考えていたら、これはつまり、僕は「仕事しかしていない」或いは「全く仕事をしていない」のいずれかの表現が適切なのではないか、ということに至った。
それほどまでに、生活の中で当たり前に使われている言葉たち(趣味、仕事、休日、余暇、など)の扱いに、僕は日々困っている。
いや、正確には、その言葉たちの定義する、意味するところが僕の生活にフィットしていないが故に、使い方がわからない。母国語にも関わらず、使えない言葉になってしまっている。けれども多くの人が、そりゃそうだ、日々その言葉たちを使っている。
別にこれは僕が先進的なのだとかそういう話でもなく、むしろ理性的に割り切り、効率的に生活を営む一般的な「大人」になることができていないということでもあるように思う。
いずれにせよ困ったことに、お伝えするのが難しいのだけれども、ピアノを弾く時も、ギターを弾く時も、ミュージシャンのライブに行く時も、漫画を読む時も、アニメを見る時も、映画を観る時も旅行へ出かける時も、お店に立つ時も、デザインをする時も、詩を書くときも、プログラミングをする時も、打ち合わせをする時も、寝ている時も、僕は仕事をしている。或いは、仕事をしていない。ただ懸命に、生きている。
そういうことにしておいては頂けぬものだろうか。社会。
本日も読んでくださりありがとうございます。うだうだとすいません。けれどもね、そういう人もいるのだということをどこか、ほんの少しだけでも、頭の片隅に置いておいてもらえたらいいなと、やはりね、思ったんです。