「社会の歯車」という言葉がどうも苦手だ。はて、この言葉の何が私を怪訝な顔にさせるのかと思えば、割とすぐに答えに着いた。
それは、動力の不在だ。
歯車は、互いに噛み合い、何かを動かすものだろう。けれどもそもそも、歯車同士が数多噛み合い何かを動かしうるものとしてそこにあったとしても、エンジン、動力源がなければ動き出すことは本来ない。
社会の全員が歯車だとするならば、それは全く全員動かない歯車たちからなる大きな仕組みか。或いは誰か何か、動力源となりうるものが何処かに存在していて、そこからひたすらにエネルギーが共有されて動かされているかだろう。
いずれにせよ、歯車は動力源ではなく、動力源は別にあり、しかしながら語られない。このことが、誰か何かの働き、仕事を表す比喩としての「社会の歯車」の意味するところのように私には思える。
自分では動かない。隣り合った歯車が動くから動く。その果ての動力源がエネルギーを流すから動く。
そういう状態の人を、私は恐らく何処かで怖がっているか何なのか。少なくとも人の喜ばしい状態ではないだろうと思っている節がある。
裏を返せば、動力源は他を動かす。歯車を動かす。人がこうして生きていて、紛いなりにも意思があり、好き嫌いがあり、これからも生きていくのなら、人には動力が備わっている。本当に自分は動かずとも気付いたら起き上がり、着替えて街を出、仕事をする恋をする美味しいものを食べる、疲れる、寝るなんてことが無いとするのなら、人には意識も意思も有する動力が備わっている。
故にやはり、動力の不在を謳う先の言葉を私はどうしても許容できず、むしろ人は皆動力源であり、自分好みの大小様々な歯車、アイディア、仕事、役割を生み出し、それらを動かしているのだから、「社会の歯車」を生み出し動かす「社会の動力源」であり「社会の製造元」などと言った方がよっぽど適切じゃないだろうか。
そんなことをなぜだか思い書き出した帰り道でした。
本日も、読んでくださりありがとうございます。人が歯車として求められた時代があったのだと思うと、その時代の終わりと共に寿命が尽きたにも関わらず残っている言葉というのもあるのだと思うのです。