何かを願ったり、何かを思い浮かべたりするのではなく、ただ手を合わせて、目をつむり、無になる。
これがなかなか難しくて、私はずっと、そういう機会には必ず色んな事を丁寧に頭の中で話していた。
「そこにいらっしゃるかはわかりませぬが、」という前置きと共に、話していた。
けれどふと、宮崎の神社にお参りした時に思ったのだ。いや、思ったというよりは自然とそうなった、と言ったほうが正しいかもしれない。
自然と、二礼二拍手一礼の流れのままに、ただそこで、私は私として、祈った。
そのことがなんだかとても気持ちがよくて、ようやく私はそういうことをできるようになってきたのかもしれぬと、人知れず嬉しくなった。
伝えようが伝えまいが、そこ、今この瞬間通り過ぎていく一瞬、一点には、常に確かに唯一無二の私の身体と、そのひと時を過ごす私の意識がある。
何を思うでもなく、風に流され、揺蕩う無としての私として、それでも尚伝わるものをもってして私であることの難しさを思えば、あのときの合掌ほど透き通った、純粋な私を、私はあまり見たことがない。
座禅を組むとか、瞑想するとか、あとサウナとかも?、もしかするとこういうことを求めての仕業なのかもしれないなあ。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。良き一瞬でした。