言葉に質量はなく、それは空気の揺らぎか、何バイトかのデータか、何ピクセルかの画面に表示された形か、もしくはインクの染みだろう。
にも関わらず、僕らは日々その質量を伴わない何かによって傷付き、喜び、悲しみ、楽しむ。心に確かにその重さを感じる。
書き手と読み手、話し手と聞き手。互いに互いの言葉の定義、思い起こされる感情感覚、理解してきたそれまでの文脈により、瞬時に計算された架空の質量を感じ、反応する。
正直に言うと僕にはそれが、たまらなく怖いものだと感じることがあり、たまらなく嫌になることもある。
ときには一言も他人へ発すること無く、他人の書いた話した言葉に触れることもせず、ただ独り、自分の言葉をのみ、書いたり読んだりして過ごす日もある。
そういう意味では、大抵の人は(もしかしたらあなたもそうかもしれない)、僕よりもよほど他人の言葉と過ごすことが上手なのではないかとも、思える。
なぜなら見方を変えれば僕は、自分の言葉を必死に書くことで、他人の言葉から遠く遠くへと逃げているとも言えると思うのだ。
そうしなければ僕の心は、受け止めた言葉の重みにたちまち耐えきれなくなってしまう程度には軟弱なものだと自覚している(一方で物凄い強度を誇る部分も僕の心にはあることも知っているのだけれども)。
ただ、書くだけならよかったものを、他人に読んでもらうものをとなると、これまた大変に大変を重ねたようなことなので、結局のところその重さに耐えながらも、書き上げ疲れ果てるという毎日が、まぁこの僕の毎日です。
そこまでして何故書くのかと問われれば、書かずにはもはやいられない質なのですと答えるしかない気がしています。
良くも悪くも、諦めが肝心なのかもしれません。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。最近は、SNSを眺める時間も大分減り、書くこと、考えること、話すこと、聴くこと、奏でること。この五つを大切にする日々です。