未来のことを考えるのは楽しいものだというのは、自分が既にできる範囲の中の、さらに内側、安心安全な状態のままできる範囲のことを実現することに言えるのではなかろうか。
そんなことを、未来のことを真剣に考え、悩み疲れ果てた夜、帰り道に思ったのでした。
楽しいだけでは決して辿り着けないところに行こうとするからこその楽しさなのだと思うならば、「楽しさ」「楽しい」という言葉は実は、多分に汗と涙と苦悩の時間が含まれた、強く、重く、険しい言葉であるとも言える。
人生は、今ここ、あの時あの場所、という点で捉えれば気楽になれる部分もあれど、生まれてから今ここに至るまでや、今ここから先の未来に至るまでの線として捉えると、気楽なだけの人生に満足できるようにできている人間が、そもそも果たしてどれ程生まれうるのだろうかとかも、思う。
あぁ、「楽しい」という言葉の扱いづらさを思えばよっぽど、「嬉しい」という言葉に頼り、心からの嬉しいと思える点に至るまで、苦楽の線をゆこうと思えればよいのかもしれない。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。アメリカの一ヶ月も、嬉しいことだけ、楽しいことだけではありませんでした。けれども確かに、本当に「嬉しい」と思えるときもあり、そして本当に「嬉しい」と思えるだろう未来もよく見えたんです。どんな「嬉しい」へ、向かっていきたいか。「楽しい」よりも僕には分かりやすいなぁと、思ったのでした。