移動時間が変えていく話

こういう人により、社会の向かう方向は変わっていってしまうのだろうなと思うし、世界の進む方角は変わっていくのだろうなと思う人たちがいる。

ふと偶然思いつく、というよりも、自分自身に思いつかせるために行動している、という方が適切な気がする程に、そういう人は自らの感受性の窓を開いたまんま、世界を歩き回っている。

そうして、思いつくために必要な刺激と、思いつくために必要な、思いつく前には何もない時間をちゃんと日常の中に用意している。

身近にいる、僕にとってのそういう人を思い浮かべると、それはもうよく移動している。

移動距離が何万キロを超えてくると、人の脳は活性化されて創造力や思考力が高まるという研究結果を聞いたことがあったから、最初は移動距離がその人に良い影響を与えているものだと思っていた。

けれど恐らく、移動時間という、何かと制限のかかった、多くのことはできない、しづらいまとまった時間こそが、その人に良い影響を与えているのではないかと思えてならない。

忙しい人は、忙しいけれどまとまった考える時間を作っているのではなくて、実は忙しさから忙しさへの移動時間にこそ、そういう時間を見出していることが多いんじゃなかろうか。

コロナで世界は変わったというけれど、コロナ禍よりも今の方がよっぽど世界は加速度的に変わっていっていると感じるのも、そりゃそうか、思いっきり移動するようになったんたものねみんなということを思えば当然に思えてならない。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。電車で、フランス語を話す旅行中のご家族に席を譲って少し、考えました。