日々考えてしまう人が考える時間を取ることの意味

考える時間を取れていない日々が続いています。何かとぼけーっとしたりしていることも多いので、それはそれでまぁ自分の知らないところで勝手に自分なりに考えてくれているようにも思えます。

例えば一週間を生きただけでも色々なことを思います。暑いなとか寒いなとかも含めて、色んなことを人は思っているのだと思います。

だからまぁ別にわざわざ考える時間を持たずとも、というかむしろ持ったところで、そこで現れる答えがその翌朝まで自分の中にあるとも限りませんし、そもそも日々色んなことを思い考えてしまっている僕らなのですから、答えをさぁ出すぞと思って考えても、それは少しお門違いな気もしてきます。

はてさてじゃあ改めて考える時間を取るというのは必要ないことになってしまうじゃないかと思いきや、そんなこともないような気がして考えてみたら、あぁなるほどとなったことがあるので書いておきます。

考える時間を取るというのは、そこで何か答えが出る出ないに関わらず、私はある程度考えたぞという認識を自分自身に与えてくれるのです。

これが案外大事なことで、このことについて私はある程度の時間を割いて考えたのだと思っているのといないのとでは、気持ちの余裕が違います(あぁけれど確かにこれはなるはやで答えが求められている仕事とかについては当てはまらない話ですね。むしろ考えたのにまだ答えを出せなかったなんて、、と焦ることありますもんね)。

そもそも答えなんてないような人生にまつわる問いなら、この、ちょっとはちゃんと考えたぞという経験は日々の心と頭に余裕を与えてくれていると思うんです。

余裕があるから、落ち着いて考えたり、他のことに触れたりしながら、無意識も含めてマイペースに考え続けてくれる。そしてやがてある日、「あっ」とか「あー」とか腑に落ちる瞬間がやってくる。

こういう仕掛けが、僕らの頭の中には、もしくは心の中には、あるのだと思うんです。

まぁこれきっと脳科学の優秀な先生に聞けば、僕の経験則なんてものよりずっと一般的な法則があるんだろうなぁなんて思いながらも、僕が僕らしく書くことにも意味がありそうだなと思い書いてみました。

真相やいかに。気になった人は色々調べてみるといいかもしれません。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。ちなみに「単純な脳、複雑な私」という、池谷裕二先生の本が僕はお気に入りです。