朝が弱い、というのはありつつも、朝は好きだ。ただ夜もちゃんと好きだなぁと思う。
それは、朝にしか語られないことがあるように、夜にしか語られないことがあり、朝にしか見れない景色があるように、夜にしか見ることのできない光景があるが故だと思う。
朝降る雨と、夜降る雨では景色は違い、朝淹れて飲むコーヒーと、夜中に淹れて飲むコーヒーとでも、確かに違う感覚を得る。
つまりは、朝も夜も、いかなる時間も、比較することはできないんじゃないかという話かもしれない。
それぞれ、それぞれの景色があり、それらを比較し、評価する確かな術を、本当は僕ら人間は持ってなどいないんじゃないだろうか。
あの頃はよかった、なんて言う人が例えばいたとして、それはきっと楽しさや喜びの尺度で測れる物事についての比較でしかなく、あの頃と今この時との光景全体を比べて比較しているわけではないんじゃないかな、と思う。
景色と景色をちゃんと本当に比べるなんて、そもそもちょっと僕らの脳の性能では相当に難しいんじゃなかろうか。
そのくらい、僕らが生きている今という時間に溢れ出し続けている情報は、取得し続けてる情報は、多すぎるんじゃないかと思う。
だからこそ、論理的思考になど頼ること無く、自らの感覚すべてで捉えた情報すべてを、光景をそのまま吐き出すように描かれる絵画や言葉、アートというものに、僕等はこうして惹かれているのかもしれない。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。いいかい僕らの思考たち、言葉にならない全てをどう捉え、どう吐き出すかに、僕ら人類の未来がかかっているよ。