誰しもが秤にかけて

今日も、嬉しいことがあった。
悲しいこともあった。
頭が痛いなと思う時間帯もあった。

昨日は、とても嬉しいことがあった。
その余韻に未だに浸れている僕は幸せものだと思った。

僕らは誰しも、
心の内に天秤を常に持っていて、
何かと何か、誰かと何か、誰かと誰かを無意識にでも比べてしまっているのだと思う。

そうでなければ自分という一人の個人に自信を持ち、友人と知人、他人と恋人、家族と仲間の区別も殆どできずに、何も選べずその場で立ち尽くすしか、生きていけばいくほどにできなくなっていかざるをえない。

誰かが悲しむ世界の裏側で、僕があなたが嬉しく笑うことだって、きっと今まであっただろうし、これからもあるのだろう。

その罪深さかどれ程かと問うてくる世間が、誰かがいたとしても、聞き流せる優しさを、誰しもが持てたらいいなと思う。

共感とは、とても喜ばしいことであると共に、とても恐ろしく怖いものでもあるのだと、昨日と今日を眺めては心の隅で小さく思う。

全ては秤の上での出来事ならば、どちらが重く、どちらが軽かったにせよ、常に好きな方を選べる我が身でありたいものだと空を見上げる。

本日も落書きを呼んで下さりありがとうございます。自分の幸せと他人の幸せ、誰かと誰かの不幸せ。それらを同じ天秤に乗せてしまうことの愚かさに、人らしさを垣間見る。