偏見を持ち歩く人々

偏見の取り除き方というか、
自分の中の常識の覆し方というものを、僕らはあまり学ぶ機会がないのだと思う。

多様性が大事だとちゃんと頭でわかったところで、本当に多様な、今まで否定したり見てみぬふりしてきた物事に、価値観に例えば囲まれたとしたら、きっと僕らはストレスを感じてしまったり、生きづらさを少なからず、どうしたって感じてしまうんじゃないかと思う。

ただ、それこそが、そこからが、多様性を受け入れ、多様な人々、価値観の中で生きていくという人間の新しさへの旅の始まりなのだろうなとも思う。

誰かに教わったところで、頭で捉えて理解したところで、体感して経験しなければ本当の意味で僕らは何も受け入れられやしないし、自分ごとになんて結局なりはしないわけで、あぁ結局自分にとって都合のいい安心安全な場所から飛び出して旅する人が増えていくには、どうしたらいいんだろうねと語り明かしたい夜の気分。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。偏見とは、社会の何処かに転がっているものではなく、確かに人が作り、纏い、持ち歩いているものなんですよね。