幻の同じ珈琲

毎日のように飲む珈琲ではあるけれど、
毎回同じ時間に、同じ場所で、
同じ気分で飲んでいるわけではなくて、
その時々で考えることも思いつくことも、
そもそもその余裕の有無も異なるわけで、
故に「同じ珈琲」なんてものは殆ど無いんじゃないかとさえ思う。

例えば今日思いついたことを、
即座に行動に移した僕は一人でソワソワし、
気づけばマグカップは空になっていた。

昨日は確か、
もうひと頑張りと思って夜中に淹れた珈琲を、
二口飲んだ位で結局僕は力尽きて眠りについて、
朝方に起き上がって、冷めた残りの珈琲をゆっくり飲んだ。

味とは、舌で感じるすべてなのだとするならば、
きっと同じ味はあるのだろうし、
同じ味だと思えることもあるのだろう。

けれど、同じ珈琲だったかと問われれば、
それは味だけの話ではなく、
その時の空気、雰囲気、景色、温度、湿度、
気分、体調、その他もろもろを含めた体験の話なのだと僕は受け取る。

故にやはり、「同じ珈琲」というものはもう二度と無い体験なのかもしれぬと、思うのです。

本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。
「同じ文章」も、きっと無い。
「同じあなた」もきっと居ない。
「同じ明日」もきっと来ないよ。