優しさの核心

「自己中心的」という言葉はあってないようなものだと長らく思ってきた。

なぜなら、どんなに「誰かのために」生きている人がいたとしても、そんな自分でありたいがために生きているのだから、結局のところは「誰かのために」生きている自分のため、ということになるじゃないか、と。

つまりは自分の存在価値や生きる幸福を表現するために「誰か」という言葉を使っているだけで、よくよく考えてみればそりゃあみんな一人ひとり、何はともあれ自分のために生きているってことじゃないかと思った、というよりは気付いた、の方が近いかもしれない。

「自己チュー」と揶揄されるように、「自己中心的」という言葉はネガティブな印象を持たれやすい言葉だと、同時に思う。

けれどそもそも実の所はみんな揃って「自己チュー」なら話は別だ。

それに「自己中心的」とは、よくよく考えれば他者が少なくとも三人以上あって生まれうる概念だろう。

周りがあって初めて中心が定義できるわけで、周り、つまりは他者が複数人いないと中心なんて分からないじゃないか。

真っ暗闇の中でたった一人で居るならば、何処が世界の中心で、ここが其処からどのくらい離れているのかなど、どうやってわかるだろう。

俗に言う自己中心的な人、つまりは周りの他者に迷惑を及ぼしながら、自分の利益のみを追求しがちな人、はどんどん周りを失っていく。そしてやがて自己を置いていた中心が何処かなど分からない孤独な暗闇に至る。

ただここで、周りの人に迷惑をかけることなく、ただ自らは自己中心的であると強く自覚し、孤独な暗闇の中へ突き進み生きていく人がいるのだとするならば、その人を社会は、あなたは、どう捉えるだろう。

自己表現、自己実現、やりたいことをやろう。そんな言葉の延長線上にあるはずの孤独を、僕等は容易く見て見ぬ振りをし、いいとこ取りした社会の中で今日も生きてやしないだろうか。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。自己を中心に置いて初めて守れる誰かもきっと居て、誰かのためを思って初めて強くなれる僕やあなたも確かに居て、だからもう「中心」なんて言葉自体が野暮だろうと思えたなら、きっとその時僕等はみんな一緒になって「優しさ」って言葉の核心に触れてんのさ。