飛ぶ鳥を羨ましいと思う心は、地に足つけて歩いた日々が育んだ一つの確かなものであり、その道すがらで幾度となく空を見上げ、鳥と出会い、空を飛ぶ心地の空想に至らなければ本当のところでは芽生えすらしない確かなものの一つだろう。
何かを羨む心の浅ましさ、その愚かさばかりが目につく世の中で、時にはそんな心の内を持つ僕等でさえもあるけれど、心の奥底から羨ましく思うことのそもそもの難しさを考えれば、羨む心とは尊いものだとすら少しは思えてきやしないだろうか。どうだろう。
羨む心が、それを培った年月の証明だとするならば、そこには確かに、積み重ねた年月により成り立つ自分の姿の輪郭も、時にはっきり、時に朧気に、在るだろう。居るのだろう。
そういう意味では、
羨む心はどうやら僕等の形を表す影のようにも思えてきたり。
羨む心が影ならば、光に照らされ其処に立つのは一体どんな姿の自分だろう。どんな顔した私だろう。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。美しい心というものがあるとして、そういうものを持つ人も居るとして、そこにも実は何かを羨む心が隠し味がなっていたりして。