無我夢中の先で

溢れ出す言葉たちに思わず笑みが溢れる。
そういう体験をしたことが何度か、いや何度もある。

その時隣に話す相手がいれば、自分の中に溢れ続ける言葉たちを少しはお裾分けできる。けれど隣に誰もいない例えば夜道を一人で歩いている時なんかには、ただ自分の中で溢れ続ける言葉が滞ることのないように繋ぎ、続け、思考し続けるしかない。

大変な感動を味わった時はもちろん、ただ歩きながら考え事をしていたらなんだか楽しくなってきて、あれ、言葉が止まらないぞとなったり、もしくは白紙の画面かノートの一ページを前に少しの間ぼーっとしていたかと思えば、ハッとなぜか一文が浮かんで綴り、その次の瞬間にはもう気付いたら書き終わり、描き終わりの一文へと辿り着いていたり。

書いている時、僕はおそらく他の全てを忘れている。胸に抱えた悩み事も考え事もやらなければならない事も誰かへの連絡も、全て忘れて、僕はただ書いている。

学生の頃、物理学の勉強をしていた時も同じような感覚だったと思い出す。カフェで絵計算用紙に数式を書き続け、問題を解き続けている時だけは、他の全てを忘れて気が少し楽になれた。

小さい頃に通っていた算盤教室でも、小学校の作文をする時間でも、同じような感覚があったなぁと思う。
計算式があって、算盤を使って計算をし始めるのだけれど、気付いたら計算が終わっていたり、作文もさっき書き始めたはずなのに気付いたらもう文字の書ける升目がなくなっていたり。

あれはなんだったんだろうか、というかあの時した計算たちは合っていたんだっけか、作文はちゃんと書けていたんだろうか、と今更ながらちょっと不安に思うけれど確かめる余地もない。

ただあの時、僕は確かに無我夢中だったのだと思う。

そしてその感覚は、今もこうして僕の中にはっきりと存在している。

無我夢中。
あなたの中にもあるだろうか?

我を忘れて、夢の中。
我を忘れても尚、夢の中で私が私であるのなら、僕が僕でいるのなら、
それこそが紛う事なき自分自身なんじゃないかとも、思う。

無我夢中。
我を忘れて尚、残る自分らしさがあるとするなら、それは一体何だろうか。

本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。無我夢中の先に生まれる、あなたにしかできないこと。僕にしか成し得ないこと。私にしか辿り着けない人生。