正岡子規は、縁側から眺める庭に世界を見た。
よーし、僕もでは、毎日乗る電車の車窓から世界を見ようじゃないかと試みる。
四季折々にはもちろん、毎日の天気によって、そしてその中で生活する人々の行動によって、窓から映る景色は毎日ほとんど必ず違うはず。
それは正岡が眺めた庭より遥かに多様で複雑で、ある意味豊かであるはずだろう。つまりは正岡が見つめ続けた景色よりも遥かに容易に、世界の様々を見つけ、捉えることができるはずだろう。
なのに、それなのに。
なかなかどうにも毎日見ていたら、ぼーっと眺めているようでその実何も見ていなかったり、居眠りしていて気付いたときには地下鉄に入っていってしまっていたり。日常の窓から世界の真理を見つける旅はやってみるとなかなかに険しい。難しい。
そもそもの、見える世界が様々なのだから、そこから様々なことが容易に捉えられるだろうという僕の思考の浅はかさよ。
目に見える景色に頼っているうちは、世界の様々なぞ果たしてほんとに見えるものかね?なんて正岡さんに言われそう。
星の王子さまにも同じようなことを、絵本を通じて単行本を通じて言われていたというのに。
気を取り直して今度はよく行くカフェの同じ席から望む窓の景色をじっと見つめることにした。
もちろん人は行き交うが、草木は変わらずそこにあり、四季の繊細な移り変わりを僕に教えてくれる。
なるほど、ざっと数えただけで、草木にも十種類以上も違う緑色がある。葉の形にしてもそうだ。木々の揺れ方で目に見えない風が見え、滴る雨水が少し前に雨が降っていたことを教えてくれる。
草木の色が異なる理由、異なっていった時間、雨が降ったのだという過去、そこを過ぎ去っていった人々。少しずつ、景色から世界が見え始める。そんな気が、ほんのちょっと、してくる。
正岡子規が生きていた時代に生まれたならば、僕も彼の家に通い、共に庭を眺めて、永遠に語らう時間を過ごしてみたかったなぁと、カフェの窓から草木を眺め、珈琲を飲み、ひとり思う。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。何が言いたかったのかと問われても、さぁ僕にもわかりませんと答えたい。そうしてだけど、あなたはどう思う?と尋ねたい。そして永遠に続けることのできるであろう会話が始まったのならその果てに、読んで下さりありがとうと伝えたい。