ワードデザインとは何か(初稿)

言葉で伝える機会というのは、生きていれば毎日必ずと言っていいほどにそこかしこにある。

言葉を扱うとき、当然のように僕らは伝えたいことを伝えるために言葉を考え、使うという前提に立っている。

けれどワードデザイン、「何かを言葉でデザインする」という行為は、伝えたいことを伝えるための言葉ではなく、そこに在るものそのものを言葉で表す行為であり、それを読みどう受け取るかについては人それぞれの多様な受け取り方を許容する態度を併せ持つ。

ワードデザインとは、
事象を言葉でデザインをするということ。
もしくは、ある物事にまつわる言葉たちをデザインするということだ。

少なくとも僕はそう思ってこの言葉を最近使っている。
そして僕がワードデザインという言葉を使う理由もそこにある。

プロダクトにせよWEBサイトにせよ、何かしらの物事にまつわる言葉を考えるとき、それを伝えるための手段としての言葉を扱う職業として、コピーライターやライターという職業が思い付く。

世に多くある、言葉にまつわる書籍たちの多くは「どう伝えるか」についてをコピーライターの方々やライターの方々が綴ったものたちだろう。

だがワードデザインという行為は少し違う。
それは、伝えるための言葉ではなく、存在の輪郭を表すための言葉を考える行為だ。

「どう伝えるか」についての言葉を考えるのではなく、「どう在るのか」表す言葉を考える。

私はこういう人間である。
私達が作ったものはこういう物である。

もしくは、
私はこう在りたい。
私達はこういう存在としてこのプロダクトを、ブランドを育てていきたい。

ワードデザインとは常に主体、主観を尊重し、言葉を思考する。

届けて、伝えて、理解してもらうことを強要せず、自分たちの態度や姿勢を言葉で表す。

時にそれは端的な一言で表すことを拒み、言葉たちの総体として、プロダクトであればパッケージのデザイン、肌触り、ウェブサイトやお店、働く人の雰囲気と共に随所に散りばめられた言葉たち、言葉遣い、書体と共に表される。

それを見る人は、それが何かを知りたいと思い、自らその言葉たちを捉えにいく。
受取手や鑑賞者、というよりは発見者であり、主体的に受け取り、思考し、意味を自らの中で醸成する。

それは従来の「伝えるための言葉たち」とはやはり似て非なる現象を生むように、僕には思えてならない(もちろんコピーライターと言われる人たちの仕事も今や、ここで書いたワードデザインという行為に重なるものも多々あるようにも思う)。

「分かりやすさ」を大切にするのではなく、
事象本来の「分かりづらさ」を認め、表す。

「伝え方」ではなく、
「在り方」を表す言葉たちを考える。

そもそも万物は、言葉と共に生まれてこない。
ただあるがままに生まれくる人、物、事。
空気感、雰囲気、景色、そしてそこからさらに生まれる行為や感覚、感情、感性、時間そのもの。

ワードデザインとは、本来言葉にするには豊かすぎる物事に輪郭を与える行為であり、そもそも分類されるつもりもなく生まれたすべての物事、人の行動、行為のためのデザインとも言えるかもしれない。

誰かに何かを伝えるために生まれるのではなく、感情の感覚の発露として、もしくはそれまでに個人が育んだ人生の発露として生まれるべくして生まれたものに寄り添う言葉たちを、考え綴る。

ワードデザインは、自発的、偶発的、主観的に生まれくるものたちを歓迎する。
そのものたちのあるがままを受け入れ、分かりづらさを愛す。

伝え届けることよりも、伝わる人に出会うことを望み、存在を示し佇む。
その姿勢に寄り添う言葉たちを彩る。
ワードデザイン。

本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。バーっと書きましたが、多分もっとこう、具体例とかを交えて書くと分かりやすくなるのでしょう。そのうち乞うご期待ください。