純粋に「書く」とはどういうことだろうかと考えてみると、意外にもこれが面白い。
何か書きたいこと、言いたいことがあり、それを上手く、分かりやすく伝わるように「書く」というとき、「書く」とは一つの方法であり、より分かりやすく、より魅力的に、より伝わりやすく「書く」ことが善となる。
目的はあくまで書き手の伝えたいことをよりよく伝えることであり、「書く」ということには実は無いとも言える。
この点において、昨今目にする殆どの文章たちがこの、方法としての「書く」によって生まれたものに該当するのではないかと思う。
方法としての「書く」は職業でもあり、それはいわゆるライターということになるだろう。
書くことそのものを目的として「書く」人を、ライターとは呼ばず、僕らはそういう人を、エッセイストや小説家、詩人、などとと言うのではないかと思う。
最も、その人たちにしても「書く」ことは手段でしかなく、伝えたいことが存在している場合の人も、仕事もあるのだと思う。
書くことそのものを目的として「書く」ということは、例えるなら雪山をスキーやスノーボードで滑り降りていくことや夜道をただ宛てもなくドライブする時のような感覚に近いかもしれない。滑るために滑り、ドライブするためにドライブする。
それはどちらかというとネガディブな意味で使われがちな言葉としてある、手段の目的化、とも言えるかもしれない。
けれど僕にはどうしてか、最近やけに目的化された手段によって生まれる光景が美しく思えてならない。
書くために書き、端的な言葉で意味を求められることを表されることを拒み続ける文の纏まりとしての小説、詩、エッセイ。
奏でるために奏で、もはやそこに伝えたい歌詞もメッセージも予め決まっていない、ただ音色、声色の集まりとしての歌、唄、曲。
私達はただ没頭し、その結果として生み出された物事を景色をどう捉えるのかは受け取ることを選んだあなたに委ねられているような。そういう全てをとても魅力的に思う。
願わくば僕もそうでありたいと思い、筆を執る。そうすることで自分がいかに多くのものを知らず識らずのうちに求めて日々筆を執っていたかが恥ずかしくなる程によくわかる。
目的は、時に筆を鈍らせ、書くことそのものの喜びをいとも簡単に忘れさせる。
かつて井上雄彦がバガボンドという漫画で描いた若かりし頃の宮本武蔵の様を思い出す。
天下無双への執着、世界で一番自分が強いのだということを天下に知らしめ、誰もに恐れられ、認められたいという欲望が、剣に纏わりつき動きを鈍らせる。
そういうことが、きっと今この世界では本当に沢山、良くも悪くも起きているのだろうなと思う。
個人的には、純粋に行為そのものを目的とし楽しむことをなるべく忘れず、いつ来るともわからない終わりへと向かっていきたいと切に願う。
純粋に「書く」。
書くために書き、踊るために踊り、歌うために歌う。そういう人の、放つ輝き。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。書くために書かれ、書く喜びに満ちた文章たちは心做しか自由に踊り、歌っているようにすら読める不思議。