書いていたら寝落ちしていた、なんてことが日常的にあるくらいには、書くことが僕の中には当然のように存在している。
書くということは、言葉を時間から開放してあげる行為でもある。
この文章も、僕が例えば「おはよう」とか「こんばんは」とか言わない限り、時刻を持たない言葉たちとして存在している。
今これを読んでいるあなたが、一体朝に居るのか、昼に居るのか夜に居るのか、僕にはわからないし、なんならこれを僕が書いている今日という日ではなく、明日や明後日、もしくは例えば数年後に今あなたは居て、この文章を見つけて読んでいるかもしれない。
そういう意味では、文章には「これはこういう時に読んでね」という期待が含まれた文章とそうでないものがあるとも言える。
「おはよう」と書けばそれは暗に「朝、読んでいるよね」ということになりうるし、時間に限らず例えば恋愛について書けばそれは自ずと「恋愛について考えようよ」という時間を暗に期待することになったりする。
読み手は常に、今の私の時間と、この言葉の中に流れている時間とが合うのかどうかを無意識にてわも感じたり、考えたりして、読み進めたり、文章の読みやすさ読みにくさを感じたりしているのだと思う。
何時どんな時を意識して書くのかというは、少し変に聞こえるかもしれないけれど、言葉を書く上で、言葉にならない意味や意図を伝える、伝わることとして、とても大事なことの一つのように僕には思える。
書くにせよ喋るにせよ、そもそも言葉ではない今日を、ひと時を、感情を感覚を言葉にして届けようとするって、なんて難しいことなんだろうかとやっぱり思う。
それでも書くのは、なぜなんだろう。
伝えたいから届けたいから考えたいから。
いずれにせよ、もっともっと、言葉だけじゃ捉えられない伝えきれない物事を上手に言葉に乗せて書けるようになりたいなぁと思いました。思っています。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。言葉にせよ商品にせよお店にせよブランドにせよ、友達と遊ぶにせよデートするにせよ一人で過ごすにせよ、時間をどう彩るか、どんな時間にするかと僕等はそもそも常に、毎日のように考えていたりする。よねぇ。