「わかりづらい」という言葉はそれだけ聞くとネガティブな言葉に受け取られがちだ。
例えば伝えたお店の位置が「わかりづらい」と言われたら、なんだか申し訳なくなるし、そもそも簡潔に伝えるのが難しい物事を頑張って伝えたりしても「わかりづらい」と言われたら「ごめんなさい」と思ったり。
でも、でもなのだ。
世の中にはそういう「わかりづらい」を楽しいと感じる人や、オモロイやんとキラキラした目で受け入れてくれる人たちが、確かにいるのだ。そのことを体感して、ようやくこうして自信を持って言えるように僕もなってきた。歳を重ねているなぁと思う。
わかりづらい物事は、当たり前だがちゃんと説明しなければ伝わらないし、理解してもらえないという性質を持っている。
その性質は実は、理解しようとする人やそういう物事を面白がろうとしてくれる人にとっては、理解しよう受け入れようとするプロセス自体が、その物事との信頼関係を構築することに繋がる。
知り合いが段々と仲の良い友達になっていくように、愛車を育てていくように、革の小物や鞄に愛着が湧くように、わかりづらい物事はそのわかりづらさ故に、わかりやすい機能的な物事よりも遥かに、楽しく豊かな関係を築ける可能性を秘めているとも言える。
わかりづらい物事というのは実は、関係性を深めていくという楽しさを内包しているのだ。
もちろんそれは、わかりづらい物事を懇切丁寧に、空きもせず何度でも何万回でも伝えようとしてくれる人があって生まれるものではあるけれど。
そういう意味では、『モヤモヤさまぁ~ず』という番組がこんなにも長く続く理由も、多くの人達に愛されている理由も、わかりづらい物事と、それをなぜか生み出してしまったり、愛してしまったりしている人達の可笑しさ楽しさ面白さという魅力を証明しているようにも、思えてくる。
本日も落書きを読んで下さりありがとうございます。モヤさまで取り上げてもらえる場所も物も人も、詰まるところ大抵の人にとっては「よくわからない」物事なんだろうなと思うんです。
僕にしても自由丁にしても、色んな人に「よくわからない」と冷たい声で突き放された悲しい体験はもちろんあって、その度にちょっと落ち込んで、けど「まぁ確かにわかりづらいもんな」と開き直ってまた前を向いて歩き出してを繰り返して、そしたらこうして時々、ニヤニヤしながら「よくわからない」と楽しそうに言って話を聞いてくれる人達に出会ったりして嬉しくて。その繰り返しの中で段々と「よくわからない」を楽しむ気持ちを自分の周りに少しずつ 少しずつ、これからも広めていけたらいいなと思っています。もちろん、「よくわからない」が大好きな方々と共に。
ちなみに、最近もよく色んな所で見聞きする「多様性」という言葉は、多様さを数えられることを前提とした言葉のように僕には思えてなんだかモヤモヤしていたんですが、数えられるということは分けられているということであり、そこには分からない、分かりづらい物事たちは肯定的に含まれていないように感じるから、モヤモヤするんだなぁと、モヤさまについて考えていたら気付いたのでした。
7/11日曜21時モヤさま、楽しみだな〜!