「あの人は中身が無い」と言い放った人を前に、僕は何も言い返さなかった。
確かにそう言えるかもしれないなとも正直思った自分もいた。
けれど翌朝目覚めて、珈琲を淹れるためにお湯を沸かしながらもう一度考えてみた僕の結論は少し違っていた。
誰かの中身がないとして、それがなんだっていうんだろうか。
それに、誰かのことを中身が無いなんて言う大人にはなりたくないなぁと思った。
そもそも、僕にせよその人にせよ、誰かの人の中までちゃんと覗くのは至難の技じゃないだろうか。中身まで覗けているぞと思える人をみんな一体何人知っているのだろうか。僕は、そうだな、、パッと思い浮かぶだけでは五人とかだろうか。
中身は、ちゃあんと覗いたなら誰しもにあるもんなんじゃないかとも思う。
本当に中身のない人なんて、いるんだろうか。いるとするなら、その人のそれまでの人生はどんなだったんだろうか。気になる。
中身がないんじゃなくて、見えてないだけ、自分の瞳に映ってないだけなんじゃないのか。
そう思うのはもしかしてそもそも僕の中身がすっからかんだからだろうか。
自分の中身は透明だったのか。
せめて外見は半透明で、少し綺麗な青とか黄色とか、そういう色で模様か何かがついてくれていたなら少しは綺麗に見えるかもなと、窓の近くにかかった風鈴の模様を眺めながら思う朝。
珈琲を淹れるために沸かしたお湯も透明だ。そりゃそうだ。
透明だけど、質量はある。
というか透明ってとっても綺麗じゃ無いか?
本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。
中身があるとかないとか、うるさいなぁ。たいして仲良く無いだけなんじゃねーの。あぁ大人ってややっこしいなぁ。と心のどこかで小学三年生くらいの僕がぼやいてる。