運ばれていく日々だとしても

想像もしなかったできなかった体験というのが、常に素晴らしいものとは限らないし、正しかろうが間違っていようが努力はそんなにすぐは実らないことの方が多い。

想像通りの平凡な日常にせよ、振り返る間もないほど忙しない日々にせよ、自分の人生であるにも関わらずなんだか知らない誰かが運転する車に乗りどこまでもいくような感覚の日々は、「続ける」なんて主体的な言葉よりも「続いていく」とか「運ばれていく」みたいな、何処か他人事のような表現の方がしっくりくるような気もする。

つまりは予想通りを望もうと予想外を望もうと、いずれにしてもそれが確かに素晴らしいものなのかどうかは、蓋を開けて味わってみるまでわからない。

果たしてそこに、数多の本で成功者たちが口々に唱えるような弛まぬ努力とか細心の注意を払ってとか、そういう強い意志的な何かが本当に必要なのかどうかも、正直わからないんじゃないかと僕は思う。

幸せを味わい生きていくための論理を探し求めて、未だ僕らはその答えに辿りついてなどいない。

万人に当てはまる幸せについての方程式があるのだと信じていたいけれど、今のところは自分で考え自分で答えを探して、他の誰に当てはまるわけではない十人十色の方程式なり答えを見つけた人がいたりいなかったりの世界だ。

なんて不確かで不親切な世界だろう。
けれどもだからこそ僕らは、互いに優しく、助け合い、支え合い、生きていこうとするのかもしれない。

全てが確かで、全てが親切丁寧な世界なら、僕ら一人ひとりは別に助け合わなくたって支え合わなくたって生きていけて、その世界では人は互いに優しくある必要すらないんじゃないか。

本日も落書きを読んでくださりありがとうございます。
本当は道なんてない荒野を走る車の中、運転するのを楽しむ人、窓からの景色を楽しむ人、進路を考える人、歌う人、眠る人。支え合って助け合って進んでいくことそのものを楽しむ心を持ち合わせた僕ら。